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⑤泉涌寺(せんにゅうじ – Sennyuji)
泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区にある寺院で、真言宗泉涌寺派の総本山です。その歴史は古く、平安時代に創建されたとされ、鎌倉時代以降、皇室と深い関係を持つ「御寺(みてら)」としての地位を確立しました。以下に泉涌寺の歴史について説明します。
創建
泉涌寺の創建は、平安時代末期(約11世紀ごろ)とされ、当初は法相宗の寺院として建立されました。伝承によれば、平安時代末期の僧・山田忠順(やまだちゅうじゅん)が山中に清水が湧き出るのを見て「泉涌寺」という寺名をつけたとされています。これが寺名の由来です。
鎌倉時代と皇室の関係
鎌倉時代、宋から帰国した高僧・俊芿(しゅんじょう)が泉涌寺の復興に尽力し、寺は禅宗寺院としての活動を始めました。後に俊芿が亡くなると、真言宗の宗派に転じ、寺は真言宗寺院として発展します。この頃、後嵯峨天皇が泉涌寺を篤く崇敬し、御願寺(ごがんじ)としての地位が確立されました。
皇室の菩提寺としての地位
鎌倉時代以降、泉涌寺は皇室の菩提寺としての役割を果たすようになり、「御寺(みてら)」と呼ばれる特別な寺院とされました。その後、後宇多天皇や亀山天皇をはじめとする多くの天皇が泉涌寺に葬られ、以降も歴代の天皇や皇族がこの寺に葬られるようになります。皇室の菩提寺としての地位は、他の寺院にはない泉涌寺の大きな特徴です。
江戸時代の発展
江戸時代に入ると、徳川家からも保護を受け、伽藍の再建や修復が行われました。江戸幕府からの庇護によって泉涌寺の寺領が安定し、多くの僧侶や信徒が参拝する寺院として栄えました。この時期に現在のような壮大な境内が形成され、寺院の建物も整備されました。
明治維新と皇室の関係
明治維新後、神仏分離令や廃仏毀釈により多くの寺院が困難な状況に陥りましたが、泉涌寺は皇室との深い関係からその存在を守られました。明治時代以降も皇室の菩提寺としての位置づけが維持され、現在に至るまで皇室の歴史や伝統を伝える場所として尊重されています。
現代
現代でも泉涌寺は皇室とゆかりの深い寺院として多くの参拝者を迎えています。泉涌寺には歴代天皇の霊廟である「月輪陵(つきのわのみささぎ)」があり、皇室の菩提寺としての役割を果たし続けています。また、泉涌寺の境内には歴史的価値のある建築物や仏像が多く残っており、文化財としても高く評価されています。
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